
との面接に当たってくださいました。息子の努力もありましたが、このようにして社会へ導いてくださった方々のご恩は親子ともども一生忘れることができません。
こうして息子は二十歳の秋、無事に地元に就職し印刷会社で写植を担当することになりました。社員は十数名で、社長さんにも息子のことは理解して頂けたようでした。しかし今までの環境とは違い、健聴者の中での仕事、職場の人にどれほど理解してもらえるかなど、たくさんの心配がありました。
なんと言っても一番は対人関係でした。当然、息子も気を使っている様子でした。やはり、障害者と健聴者との間には厚い壁がありました。
精神的にも体力的にも疲れていたのでしょう。そんなある日の早朝、トイレから出て玄関で倒れたのです。一一九番に電話。けたたましい救急車のサイレン。すぐに町の病院に運ばれましたが、頭を強く打っているので帯広の脳外科へ回されたのです。息子の顔は真っ青で昏睡状態。私は、「どうぞ息子を助けてください」と祈るばかりでした。
病院でのいろいろな検査。もしかして手術では……。やがて意識が戻ると、「頭が痛い」と苦しがり痛み止めの注射。また眠りに入る。そんな日が四〜五日続き、ようやく顔色に赤みがさし回復のきざしが見えて来ました。一時は生命の危機さえあったのに……。
ある夕方、チャイムが鳴ったので玄関に出て驚きました。埼玉で指導してくださった先生でした。私が手紙で息子の病気のことを知らせたので、お見舞いに来てくださったのです。千歳空港からタクシーで四時間。先生はただ息子の手を握り無言のまま涙を……。二十分ほどお話
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